「鳥山石燕著『今昔画図続百鬼』」(より)
美しい女性の妖怪として知られる「玉藻前(たまものまえ)」。名前だけはゲームや漫画で聞いたことがある、という方も多いでしょう。
玉藻前の伝説は日本だけでなく中国やインドなどにも広く存在し、その正体は「九尾の狐が美女に化けた妖怪」と言われています。
この記事ではミステリアスな妖怪「玉藻前」について、詳しく解説していきます。
平安時代末期、宮中に務める藻女(みくずめ)という少女がいました。藻女はやがて女官として鳥羽上皇に仕えるようになり、「玉藻前」と呼ばれ、その美貌と知識の深さゆえに上皇の深い寵愛を受けるようになったのです。
しかし上皇は次第に体調をくずし、医師たちにも原因がわからず、陰陽師が呼ばれました。「上皇の病気は玉藻前の仕業である」と見破った陰陽師 安倍泰成が真言(呪)を唱えると、玉藻前は術を解かれて元の姿、つまり九尾の狐の姿を現したのです。
宮廷から逃走した九尾の狐は、その後栃木県北部の那須野で発見され、武士の手によって討伐されました。那須野の地に今も残る「殺生石」は九尾の狐が変化したもので、「生き物を殺す石」として人々に恐れられてきました。
九尾の狐の伝説は紀元前11世紀頃までさかのぼります。最初は殷の紂王(ちゅうおう)の愛妾 妲己(だっき)として現れ、その後インド、周、日本と何千年にもわたって美女の姿に化け、権力者をたぶらかし、悪事を働いた妖怪として伝えられてきました。
しかし日本の玉藻前には実在のモデルがいたようです。鳥羽上皇の側室で、当時権力をほしいままにしていた藤原得子(美福門院)です。藤原得子は自分の子や養子を帝位につけるために崇徳上皇や藤原氏らと対立し、保元の乱や平治の乱を引き起こしました。
藤原得子が妖怪のモデルになったのは、彼女に失脚させられた藤原璋子や崇徳上皇母子に対する同情があったようです。
ある夜のこと、鳥羽上皇が宮中で和歌の会を開いた際に、一陣の風が吹いて燈火を消してしまいました。
すると暗闇の中で突然、藻女(みくずめ)の体から光が放たれ、あたりが明るくなったのです。上皇は大変感激し、玉のような光を放つことから、以後、藻女を玉藻の前と呼ぶようになったと伝えられています。
また一説には、何を尋ねても曇りなく答えるほど博識だったのでこの名前が付いた、とも言われています。
以上、玉藻前について解説させていただきました。
東アジアをまたにかけ、何千年ものあいだ権力者に取り入って悪事を重ねた九尾の狐ですが、日本では現在「きゅーびー」というゆるキャラとなり、那須町の観光大使を務めています。
恐ろしい妖怪を愛らしいゆるキャラに変えてしまう日本は、やはり人間と妖怪との距離が近いのかもしれませんね。